櫛まつり


櫛祭りは、昭和36年に美容文化クラブの人たちによって、安井金比羅に櫛塚が建立され、使い古した

櫛などに感謝し、供養する櫛供養が行われたのをきっかけにはじまりました。

その時、時代風俗の結髪・着付けが披露され、行列を作り、一般の人々にも見てもらうようになりました。

結髪は、地髪をベースに結い上げるのを基本としてるところが大きな特徴です。

日本一の結髪の技術が見られる祭りでもあります(結ってるところは一般客は見れないけれどね)。


写真をクリックすると、大きいバージョンが見れます。衣装や髪型が面白いので、是非大きくしてみてください。


因みに、櫛まつりは毎年9月の第4月曜日に行われます。興味のある方は、来年9月の第4月曜の1時ごろに、京都の

安井金比羅さんに集合しましょう。

わたしも是非、来年も行って、今度は背景の良いところで、頭をメインに写真を撮りたいと思います。

今回は全体しか撮る余裕がなかったので。初参加では、なかなか色々なコツがつかめませんでしたが、次回は

今回の反省を活かして、かなり楽しめるのでは、と期待しています。            H18.9.25


奉納舞で「黒髪」を舞う芸妓さん。
とても色っぽい。


この「黒髪」というのは、漫画「風光る」で
山南さんの切腹にショックを受けた
遊女・明里さんが、山南さんの後を追う
前に舞った踊りですね。
振りが一緒かは分からないけど
先頭の男性




先頭の男性に続く楽隊。
本当に演奏している。
写真一番左の人は女性でした。






古墳時代

 
         美豆良(みずら)

    唯一の男子。
    頭の中央で左右に分けて束ね、
    その毛束を下げて上げて髻
    (けい)を作って、中央を結んだもの。

              島田

    頭頂部で髪を平たく畳んでで束ねたもの。
     日陰蔓(ひかげのかずら)というものを
     頭に巻いている。


奈良時代 平安時代
        双髻(そうけい)    高髻(こうけい)

  高髻は、奈良時代の貴婦人の髪型。後頭部を高く結い、天辺を
  2つに分け、その根元に十字に髪を巻きつける。左右の髪は
  折り返して括る。
  双髻も貴婦人の髪型で、唐時代の女性の傭(人形)の髪型を
  まねしたものらしい。左右の髪をそれぞれ頭の上で結んだもの。
           白拍子(しらびょうし)

   平安末期の町芸妓のような人。
   素性も人格も高い人が多く、武家に招かれて舞や
   歌などを披露した。
   後頭部で髪を一つに束ね、烏帽子(えぼし)をかぶり、
   白の水干(すいかん)に赤の菊綴(きくとじ)を付けた
   上着に緋袴をはき、腰に太刀を差した男装の麗人。
   義経のお妾「静御前」などが有名。



鎌倉時代 室町時代 桃山時代

         虫の垂れ衣

    武家夫人の旅に出るときの姿。
    虫の垂れ衣のついた市女笠
    (いちめがさ)をかぶっている。
    虫よけのため。髪は垂髪だが、
    顔の両側が短く切られているのは
    (前に垂れてる部分)成人の証。




           侍女

   その名の通り、侍女の髪型。
   身分の高くない女性は、短垂髪と
   呼ばれる、髪を腰のあたりで切り揃え
   垂らし、首の下で結んでいた。





           巻髪

   勤労層の婦女子は、垂髪を簡単に
   後頭部でくくり、その毛束を白い
   布で巻いていた。






       唐輪(からわ)

  遊女や歌舞伎役者の間で
  流行した髪形。
  朝鮮や中国との往来が盛ん
  だったため、風俗もまねした。
  前髪を左右に分けて垂らし、後ろの
  髪は頭頂部でまとめて扇形に結い
  根元に髪を巻いたもの。
  扇部分の輪は個人の好みで
  2つ・3つ・4つの場合があった。



江戸時代前期
    立兵庫(たてひょうご)

 兵庫の遊女から起こった「唐輪」の
 変形。後に一般の婦人にも広まった。
 唐輪と違い、後頭部の輪は一つ。
 また、鬢(びん)も髱(つと)もはっきり
 出されていて、頭頂部から毛束が
 垂らされている。  




     笄髷(こうがいまげ) 
             元禄勝山(げんろくかつやま)

  笄髷は笄(かんざしみたいなの)を使って結った髷。
  ポニーテールのように結んだ髪で輪を作り、その下に
  笄を差して周りに髪を巻きつけたもの。
  元禄勝山は、前髪をあまり高くせず、髱を思い切り
  後ろに長く出したもの。
  勝山という遊女が結い始めて流行したらしいが、
  勝山は武家出身との説もあり、身なりも上品だった
  ことから後に一般女性、とくに身分の高い女性に
  結われた。
  元禄勝山  
       笄髷(こうがいまげ)内蔵之助の妻


   笄髷を結って、外出用に額から前髪に
   かけては紫縮緬の輪帽子を当てている。
   因みに、この姿は眉毛がありません。








江戸時代中期
        元禄島田

  髱は、前期では不徳やや丸みが
  あったがだんだんと細く長く後ろに
  突き出していった






     横兵庫   元禄島田

   この人たち、よく似合ってます。






           横兵庫
 
   前期の兵庫髷を横に倒したもので、
   堅気の女性ではなく、粋な商売女たちに
   結われた髪型。
   髱のふくらみは少なく、鬢が膨らんで
   鬢裏が見えるようになっている。
   膨らんだ鬢は、鯨のひげや亀甲などで
   作られた鬢張りというものが使われた。
   これを火であぶり、好みの曲線にまげて
   使う。
           お梶

   ばい髷といって、かんざしを立て、
   それに髪を巻きつけて結び残りを外に
   出したもの。
   額にかぶった揚げ帽子は、左右に
   おもりをいれて垂らし、後ろ紐に
   引っ掛けている。





   春信風島田(はるのぶふうしまだ)

  町家の娘に結われ流行した髪型。
  当時全盛だった鈴木春信の浮世絵によく
  見られる。
  特徴は、跳ね上がった髱。長いだけでなく、
  一度下がってまた上がっている。


         円山鬢・笄髷
     (まるやまびんこうがいまげ)


    円山〜というのは、髱を突き出すのを
    やめた代わりに、鬢を張り出させるように
    した髪型のことらしい。
    これは、髱が短い笄髷ということか。


      円山鬢・島田

    左に同じ。
    つまり、鬢を張り出させた
    島田髷




       円山鬢・丸髷

     左に同じ。
     浮世絵や美人画などで
     よくみられる。






江戸時代後期
       葵髱下げ上げ
    (あおいづとさげあげ)


   下げ地公家では「下げ下」という、
   根元に小枕を入れて島田のように
   結った髪をしていた。
   髪の先を笄に撒きつけ、たもの
   だが、「下げ上げ」は、飾り紐を
   かけるだけの違い。
   17〜23歳くらいまでの髪型。

      葵髱つぶ髷

  宮廷の女官見習いの髪型。
  髱の形が葵ににていることから
  こう呼ばれる。
  左のも同じだが、板などを
  入れて髱の形を作る。




       おさ舟 (武家母親)

   丸髷から変形したもので、武家の
   格式をあらわす髪型。
   鬢と髱をおだやかな円形に
   まとめている。

   わたしの隣に知り合いがいたらしい。



     勝山髷(かつやままげ)

   この時代、「勝山」の吹輪の輪の
   幅が平たくなって幅も広くなった。
   正式の場には笄を挿し、略式では
   両天かんざしを挿す。








江戸時代後期 明治時代
       奴島田(やっこしまだ) 
                 
先笄(さっこう)

    高島田を「奴島田」とも呼ぶ。
    根は高く、しり上がりの形。髱が上に
    上がっているのが特徴。
    髷先も膨らんでいる。
    先笄は、京風の髪型で、主に町家の
    若奥様などに結われる。
    手絡みの色は年齢によって変わる。





          結綿  おしどり

    結綿は、根の低い「つぶし島田」に
    鹿の子をかけたもの。
    十八、九までの結婚前の娘の
    髪型で、明治初期にも結われていた。

    おしどりは、今日の町家の娘の髪型。
    十五、六歳まで結う。
    結綿にさばきの橋をかけ、鹿の子に
    銀ばらの輪を通して、前髪を後ろへ
    垂らしたもの。
    おしどりには雄と雌があるが、普通は
    雄を指す。

      花嫁  割がのこ  布天神  粋書髷(すいしょまげ)

    花嫁と割がのこは明治時代の髪型。
    布天神と粋書髷は江戸後期。

    粋書髷は、先笄髷から油つけの輪をとったもの。
    京都の24,5歳の女の髪型。前頭部に横水平に輪をつくり、
    鹿の子と一緒にかんざしを横に挿して、後ろは島田風になっている。
    先笄の簡略された形。京都にしかない髪型。
    布天神については詳細分からず。







明治時代
          丸髷(まるまげ)

   明治・大正・昭和にかけて大流行した髪型。
   主婦の代表的な髪型だが、髷の大きさが
   年齢によって変化する。
   若い人は大きく、歳をとるごとに小さくなる。
   また、若い人は赤やピンクの鹿の子をし、
   歳とともに水色や藤色に変える。
           桃割れ  結綿

   明治末期から、18歳くらいの若い娘が結った髪型。
   前髪が小さく、左右の鬢は小さくまとめられる。
   髷は2つに分けて左右に丸く作られる。
   この髷部分が割れた桃のようだからこの名前がついた。
   髷の中には丈長を使ったり、鹿の子を使ったりする。
   結綿は、上の結綿と同じようなもの。



大正時代
              耳かくし

  
 コテをあてるウェーブが広まってはやったもの。
   他にも「女優髷」や、フランスの戦争未亡人が結った
   「行方不明」などという、髷のない髪も流行。
   毛を染めることもあったという。



         束髪(そくはつ)

    明治後期から大流行した髪型。
    髪にも個性を、という風潮が流行り、
    束髪も、多くのバリエーションがあった。





             揚げ巻き

    一時流行った西洋風のアップスタイルが
    弾圧された時に、日本化された髪型。
    割烹店「花月」の女将が結っていた「花月巻き」が
    一転して「揚げ巻き」と名づけられ、後に
    「夜会巻き」とも呼ばれるようになり、
    鬢、髱も日本風であったため大流行した。




現代舞妓
         割れしのぶ

  舞妓になってすぐに結われる髪型。
  独特の「ありまち鹿の子」という
  ものが使われ、可憐で優美な
  スタイルになっている。
  花かんざし、玉かんざし、橘の花の
  根挿しなどが使われ、髷の上には
  いち止め又は鹿の子止めが挿される。
  花かんざしは毎月違うものに変え、
  季節感を出す。

           おふく

  割れしのぶの次に結われる髪型。
  福髷。
  お姉さん舞妓の髪型で、地毛が
  十分にあっても、髷に地毛を使わずに
  シャグマの添えを入れて、地毛を
  包んで隠すように結う。




          菊重ね

  もとは町家の娘の髪型として結われ
  たもので、先添えを添えて結綿のように
  髷をつくり、くくられたあたりに横添えを
  入れて町長のような髷をつくる。
  根の後ろから鹿の子をかけ、上の交差
  するあたりに 少し綿花をいれる。
  節分の替わり髷として結われる髪型。



        勝山

   勝山髷は7月の祇園祭りの
   期間中に結われる髪型。
   地毛の添え毛で結う。
   髷の左右には長い銀ふりの
   絽の布(手絡み)をかけ、
   ぼん天を挿し、祭り用の銀製の
   華やかな花かんざし、平打ち、
   青玉かんざし、びら、びら止めを
   挿す。


                                先笄(さっこう)

  舞妓から芸妓に変わるときを「襟替え」というが、襟替えの1ヶ月ほど前のあいさつ回りに結われる髪型。
  舞妓最後の髪型で、明治初期に、町家の婦人などがこの先笄に結うと、お歯黒にしたのですが、その名残でこの髪を結うときは
  お歯黒にするそうだ。この人はしてなかったけど。
  亀甲の櫛、笄、前挿しを使うのがきまり。

  この人は本物の舞妓さん。上のほかの現代舞妓の恰好のひともそうかもしれない。
  このお姉さんは(年下かな?)奉納舞の「黒髪」を舞った方です。
  もの凄く綺麗で、見た目だけでなく雰囲気も綺麗で、もうファンになってしまいました。左の写真の仕事中のおじさんも嬉しそうです。
  わたしも、夢中になって行列にくっついていきました。軽く正気を失ってました。
  見物の人にも人気で、列の一番最後を歩いてたせいもあるけど、並んで一緒に写真を撮ってもらってる人も多かったです。
  真ん中の写真は、たまたま立ち止まって、わたしに向かって微笑んでくれた時です。良い人です。

  また、風光るでも紹介されてましたが、この人は舞妓さんですが、襟を返してますね。





           行列の様子。
           一番右の写真は、行列の出発地点でもあり、櫛の供養などの儀式を行った場でもある、安井金比羅さん。
           因みに、一番手前に写ってる方は男性です。



              わたしはこの中だったら、白拍子の恰好がしたいです。
              昔から白拍子には、なみなみならぬ憧れを抱いているのですよ。わたし。
              舞妓さんの恰好も良いけれど、定番だからね。わたし似合わなそうだし。
              後は大正時代もいいですね。
              みなさまは、どれになってみたいですヵ?
              どの時代にしても、それ風の着物は着れても、髪を一人で結うのは無理ですね。
              わたしにもチャンスが巡ってくることを祈りたいです。大吉出たし(下参照)。





新撰組関連地


                         西本願寺

            左から、本堂、本堂内、門、太鼓楼。
            新撰組が、2番目に屯所として使っていたところ。
            使っていた北集会所は今はありません。どっかに移築したんだっけ?
            ここの門のそばで、法衣の色のアンケートに答えました。



             壬生寺(壬生延命地蔵尊)

        新撰組が京に来て最初に屯所として使っていた
        八木邸・前川邸の近くにある壬生寺。
        境内で剣術の稽古をしたり、子供たちと遊んだり
        または葬式をやったりしたところ。
        中には芹沢鴨たちの墓や、近藤勇の遺髪の碑や
        胸像があった。


                   八木邸・旧前川邸

     新撰組が京に来て最初に屯所として使っていた両家。
     八木邸は、母屋(左下)と長屋門(左上)が当時のまま残っている。
     母屋を使用していたのは芹沢鴨グループ。
     芹沢派暗殺の舞台にもなった部屋や、その時についた刀傷も見ることが出来る。
     また、庭の一部も当時のままだと言うことです。
     近藤勇たち試衛館グループが使用していた離れは、現在お菓子屋さんになって
     いて(右上)屯所餅などを販売していた。
     ここにはガイドさんがいて、中で新撰組の歴史を話してくれる。おもしろかった。
     ちょっと泣きそうになりました。
     昔の本には、一般公開はしていないと書かれていたのですが、いつの間にか
     一部が公開されるようになったんですね。
     八木家は今十七代目だそうですが、ここには住んでいません。

     前川邸は、今は工場になっていて、写真(右下)に写っているあたりしか当時の
     ものは残っていないそうです。家主も、前川家ではないそうです。
     また、一般公開はしていません(土日はしてる?)が、この門を入ったところで、
     「前川邸見取り図」というのを分けてくれます。



                   光縁寺

   前川邸の前をずっと歩いたところにある寺。
   ここには山南敬助さんのお墓があります。他にも沖田氏縁者の墓も
   あります。本などを読むと、これが誰の墓かは分かっていないが、
   沖田さんと一時良い仲だった医者の娘ではないか、などと書かれて
   いますが、この寺の住職は、「明里の墓かな・・?」と言っていました。
   どうなんでしょうか。明里さんは山南さんの恋人でしたが、沖田さんとも
   仲良しだったんでしょうか?
   ともかく、山南さんの墓と沖田氏縁者の墓をお参りしてきました。
   説明書によると、他にも藤堂さんや甲子太郎の墓などもあるような
   ことが書いてありましたが、一般の墓もあるようなのでうろうろ探す
   のも失礼なので2つのお墓だけおまいりして帰りました。

   関係ないですが、わたしと同じタイミングでこの寺を訪れたおじさんと
   住職の話を聞いていたのですが、住職がおじさんに「あんたははじめて
   かな?」と聞いて、おじさんは「初めてです」と答えたんだけど、何故か
   わたしには「あんたは初めてじゃないな」と言い切りました。
   いえ、初めて来たんですよ〜
   慣れてる感じだったんでしょうか?態度がおおきかったんでしょうか?
   一人で行ったからかもしれませんが。



                       上賀茂神社

   新撰組とは特に関係ありませんが、友達の家からの通りすがりによってみました。
   とても雰囲気の良い神社でした。

   そこでおみくじを買ったのですが、それが真ん中の馬です。
   この馬がおみくじを咥えていて、開いたらなんと!大吉でした。
   でも良いことばかり書いてあるので、なんかうそ臭い感じすらしてしまいます。
   が、ここはポジティブに考えて、浮かれることにします。やった!
   今後の人生に期待が持てそうです。
   因みに、馬は、鞍部分が赤いのと水色のとありました。

   神社の近くで売っている「やきもち」がおいしかったです。