kmn.8  伊藤潤二「首吊り気球」 

         
潤二の恐怖夜話〈第4話〉

ハロウィン少女コミック館 伊藤潤二の恐怖夜話A 全1巻
     (同時収録 : 血玉樹 , あやつり屋敷)


伊藤潤二の漫画は、大半が人に説明するのが難しい内容になっている。説明がしづらい、というよりも、細かく説明しても理解してもらえない。

もう、よんでもらうしかない。だから、みんな読め!


でも、これで終わってしまってはこのページの意味がないので、なんとか読んでみたくなるように、興味を持ってもらえるように、紹介してみます。




 ストーリー
  主人公、和子の親友、藤野輝美が死んだ。マンションの外壁にロープで首を吊っていた。輝美はアイドルタレントだった。

  輝美の死は、世間に衝撃を与えたが、その後、輝美の幽霊が頻繁に目撃されるようになる。その幽霊とは、巨大な輝美の

  顔が風船のように浮かんでいる、というものだった。

  その後、全国各地で、人の顔をした気球が、首の下にロープを輪にしてぶら下げて襲ってくる、という事件が多発。自分と

  じ顔をして、同じ声で話す気球が、その本人を狙ってロープを伸ばしてくるのだ。人々は家に篭ったが、食料の調達に

  外に出た時を狙われたり、不意を突かれたりして次々首を吊られていった。また、長引く避難生活の心労から、自ら吊られ

  に外に出る者も現れた。和子の顔の気球も、今、窓の外で和子を呼んでいるのだった。




ストーリーを書いてみても、やっぱりダメだ。上手く伝えられない・・・。

伊藤潤二の漫画は、ストーリーがあるような無いようなものばかりだから。この首吊り気球だって、何で気球が襲ってきたのかなんて全然描いてないし、

何故最初に狙われたのが輝美なのかも分かんないし、この話は違うが、辻褄が合ってない話も沢山あるし。気球が襲ってくるっていう設定も凄いが、

普通のホラー系漫画だったら、気球が襲ってくるにしても、過去に何か呪いだとか恨みだとかの理由や原因があってのこと、という設定になってると思う。

他の作品も、大抵そういう怖い現象が起こる理由が無いのに怪現象が起こる。だから、読んでも意味が分からない人も続出。

しかしわたしは、漫画だけでなく、小説や映画や舞台や、音楽や絵などを鑑賞する時でも、メッセージ性には興味は全く無く、娯楽性をともかく重視する。

だから、絵がバカみたいに美しいだけでもいいし、ストーリーがとんでもないだけでも良いのだ。伊藤潤二は絵が上手い。自分が好きな部分は凄く丁寧に

描いてある。でも、ストーリーは馬鹿馬鹿しい。でも、総合して、とっても面白い。何も人生に役に立つようなことは学び取れないけれど、そもそも文化とか

娯楽とはそういうところから出たもので、「人生の役に立つもの」ではなく、「人生を潤すもの」だと思うのだ。だから、わたしは伊藤潤二の姿勢はとても

正しいと思う。どうしてもこの絵が描きたい、とか、この設定を使いたい、というピンポイントの情熱を感じる。どんなジャンルにしても、作る側が楽しんでるか

はどうかがとても重要なことだと思うのだ。

勿論、読んで為になる漫画もたくさんあるし、そういうもののわたしは好きだけど、わたしが好きなそういうタイプの作品は、娯楽性を放棄してない作品だ、

とわたしが思える作品だ。作る側が娯楽性を放棄したら、自己満足でしかない。それはプロではない。わたしの言う娯楽性とは、別に明るく楽しく軽い作品

という意味ではありません。



昔のわたしは、人間の気質のタイプで言う、芸術家タイプに大いなる憧れを持っていたし、自分はどちらかと言えば芸術家タイプだろう、と思っていた。

しかし、今は、自分がどれだけ凡人かは、がっかりするほどよく分かっているのでそんな事は思わない。むしろ、今現在のわたしは、芸術家タイプより

職人タイプに憧れる。芸術品ではなく工芸品を作りたいのだ。工芸品の芸術性を否定するのではない。それは今は、別の話なので置いておいて、

工芸品には、決められたことをきちっとこなしたかっこよさがある。何でも好きにやれば良いってもんじゃない。実際の工芸品には、規定があるわけで、

職人さんたちは、その規定の中で如何に自分らしさを出すか、自分の理想の作品に近づけるか、また、伝統を守るか、をいう仕事をしているのだ、と

わたしは思っている。

わたしは着物を着るのも染める(というよりデザインを考える)のも好きなのだけれど、着物には規定があるからだ。着物は形が決まっている。デザイン

しようと思ったら、その形の中でどれだけ人と違うことが出来るかを考えなければならない。そこがたまらなく面白い。着るにしても同じだ。着物の形は

同じなのだから。わたしがクラシック音楽やバレエが好きなのも同じ理由だ。もう型がおおよそ決まってる中で、どれだけ力を出せるかを競っているのだ。

そうやった結果を人に見せたりして商売してる人は、みんな職人だ。左官屋さんのような仕事だって、作品とまでは言わなくても同じことだ。

ここで先ほど置いておいた工芸品の芸術性の話に戻るが、職人にもいろいろあって、バレエや音楽家などは、同時に芸術性も求められる。というより、

職人の仕事を極めた結果当たり前のように芸術性が出てきてしまうのだと考える。「個性」という部分にも注目されるからだ。さっき例にあげた左官屋さん

等は、逆に、正確にその職人技を再現し続けなければいけないタイプの職人だ。

漫画家も、役者も、音楽家も、わたしは職人であるべきだと思うのだ。「自分の為」と、「読者の為」のバランスを見失わない人であるべきだ。きっと、本当の

芸術家とは、自分の為にしか作品を作らない。そしてきっと、死んでから作品が発見されて、存在が世に知られるのだ。完全に妄想だけど。



伝統は守るべきだ。伝統に縛られるのは少しも悪いことじゃ無い。そういうことに文句を言う人は、少しでも規制があると何も出来なくなってしまう、柔軟性の

ない人だと思う。つまんない。

そんで、漫画はとっても工芸品だとわたしは認識する。そういうタイプの漫画・漫画家が好きだ。伊藤潤二は、漫画職人だ。

意味の分からない持論を展開してしまったけど、一度読んだらはまる。時代劇やサスペンスドラマにはまるのと同じ感じで。


そもそもわたしは、職人云々と言う前に、様式に美しさを感じる性格なのだ。だから、そういうタイプで無い人には、伊藤潤二も時代劇もクラシック音楽も

バレエもサスペンスドラマも、面白さが伝わってこないつまらないものに見えるのだろう。それは残念だけどしようがない。ということにして、強引にまとめる。


以上。




   和子を襲う、和子顔の気球

           P104

           遥cpによる模写