kon.7  フェリックス・メンデルスゾーン
               「ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64」

                                
Felix Mendelssohn「Violin Concerto in E minor Op.64



協奏曲は「
コンチェルト(concerto)」の日本語訳である。メンデルスゾーンのコンチェルト、略して「メンコン」と呼ばれているこの協奏曲は、俗に言う3大コンチェルト

名前が挙げられている。3大コンチェルトの他の2曲は、
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61ブラームスのヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77、となって

いたり、ブラームスではなく
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35になっていたり、どっちなんだか分からないけれど、どっちにしろメンデルスゾーンと

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は入るらしい。この、メンデとベートーヴェンとブラームスとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲4つをあわせると、今度は

全員漏れなく
4大ヴァイオリン協奏曲となる。よかった。

ちなみに、メンデルスゾーンのコンチェルトはメンコンだが、ベートーヴェンのコンチェルトはベーコン(ベトコンと言う人もいるが、やはり少数派のようだ)、ブラームスの

コンチェルトはブラコン(こっちは問題ないらしい)、チャイコフスキーのは当然チャイコンだ。メンデルスゾーンなんかは、もう1曲ヴァイオリン協奏曲があるし、他の人も

ヴァイオリンじゃなかったりもするが、ほかに協奏曲は書いている。しかし、メンコン、チャイコン、といったら、上に書いた1曲を指すのである。知らない人にはややこしい。



メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64は1845年に発表された。

しかし、メンデルスゾーンが最初にこれを書こうと思ったのは、6年前のことである。メンデルスゾーンは当時、ケヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者をしていたが、そこの

コンサートマスターであり、メンデルスゾーンの友人である
フェルディナンド・ダヴィットに「来年の冬までにホ短調のヴァイオリン協奏曲を書きたい」と手紙を書いている。

だが、当時彼は結婚したばかりだったし、新しい仕事も始まったばかりだったし、他にたくさん書く曲があったりして、6年も遅れてしまったのだ。もっとも、昔の作曲家に

とっては、これくらいの遅れはよくある話だ。

実際に書き始めたとき、メンデルスゾーンは、友人であり、当時の名ヴァイオリニストであった(コンサートマスターは普通ヴァイオリン奏者がつとめる)ダヴィットに

アドバイスを求めた。協奏曲を書く際には、自分がそのソロ楽器の(今回はヴァイオリン)奏者(で尚且つ上手ければ)ならいいのだけれど、そうでない場合、誰かその

楽器の奏者にアドバイスをもらうのが普通だからだ。

メンデルスゾーンは筆が速いことで知られているが、この曲も書き始めたら早かったという。(実は6年間書き続けていた、という説もあるが)

初演は1845年。メンデルスゾーンは体調が悪かったため、ゲーデという人に指揮を任せている。ヴァイオリンソロは勿論、ダヴィットだ。

初演からこの協奏曲は評判が良く、大変な人気だった。

その人気は彼の死後も続いていたのだが、1933年、ヒトラーが政権の座につくと、ドイツ民族の純血を護るためにユダヤ人を抹殺しなければ、という考えから、ユダヤ人を

虐殺した。ユダヤ人嫌いのヒトラーは、当然のようにユダヤ系の音楽家にも手を伸ばし、また過去のユダヤ系作曲家の作品を演奏することを禁止した。メンデルスゾーンも

ユダヤ系なのだが、他にも
マーラー、マイアーベーアの3人の作品を特に強く禁止した。この3人の頭文字がMなので、3Mと呼ばれる。(3Mとか3Bとか、クラシックはそういう

のが好きみたいです。○大コンチェルトとかね。)

メンデルスゾーンのこの協奏曲も当然禁止されていたのだが、他の2人の作品も含め、人気のあった曲は、作曲者の名前を伏せて演奏された。ドイツの音楽家や音楽ファン

たちの、ささやかな抗議・抵抗であった。ナチス政府も、名前は伏せているとは言え、曲を聴けば作曲家が誰かはすぐばれる。それでも余りの人気ぶりに最後には黙認して

いたという。音楽の力は、ヒトラーすら黙らせるのだ(ヒトラーはヴァーグナーの曲を政策に使ったりしていたけれど)。




曲の構成


  ◎第一楽章  ホ短調 アレグロ・モルト・アパッショナート(アパッショナートは、情熱的にの意)

              ソナタ形式で書かれている。主題の提示部で第1主題・第2主題が提示され、展開部、カデンツァ(*1)、

              その後に主題の再現部、という流れ。  哀愁漂う旋律が心をつかむ!


 
 ◎第二楽章   ハ長調  アンダンテ

              協奏曲の定番どおり、二楽章はゆっくりの曲。ソロヴァイオリンがメロディと伴奏を同時に弾く技巧が聞かせどころ。

              中間ではイ短調になり、トゥッティ(合奏)とソロがかけあう。


 
 ◎第三楽章   ホ長調  アレグロ・ノン・トロッポ・アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ

              イ短調の導入部(序奏→ファンファーレ)から、軽やかで華やかなソロバイオリンの旋律が始まる。序奏つきソナタ形式。



曲の特徴


★普通、協奏曲の始まりははオーケストラによる長いイントロがあってからソロ楽器が登場する。正確にはイントロではなくて、オケが第1主題・第2主題を

  演奏しその後にソロ楽器も加わって、ソロが同じ主題に変化をつけて演奏する。のだが、このメンコンでは、イントロ(これはまさにイントロかも)がわずか

  1小節とちょっと。2小節目にはもうソロヴァイオリンが登場する。ソロヴァイオリンが第1主題を提示するのだ。そこからずっと出っ放し。他の協奏曲より

  疲れるらしい。


★通常、第1楽章の一番最後、再現部の後ろに入るカデンツァが、この曲では展開部の後に入っている。また、カデンツァの終わりは大抵トリル(*2)に

  なっていて、次の楽章に写るタイミングを指揮者やオケに合図するのだが、この協奏曲ではトリルをせず、ソロヴァイオリンは切れ目無くそのままオケの

  伴奏側にまわってオケによる再現部が始まる仕組みになっている。しゃれてる!

  ちなみに、この協奏曲のカデンツァは、メンデルスゾーン自身が書いたものである。(*1参照)


★全三楽章を全てつなげて、切れ目無く演奏する。普通は、1楽章ずつ止まる。



ソロヴァイオリンの出番が早いこと、全三楽章をつなげて演奏するスタイルをとっていること、は、当時凄く斬新だった。が、後に、これをまねする者が多く

あらわれたらしい。



   
*1 カデンツァ・・・ cadenza
 
         cadenza di bravura、cadenza fiorituraの略。主に協奏曲の第1楽章、又は終楽章(普通は第三楽章)や、オペラのアリアの、曲が終わる

         直前に置かれた、独奏者(独唱者)のテクニックを存分に発揮するためのコーナー。

         本来のカデンツァは、楽譜にメロディは書かれておらず、ソロ奏者がその曲にあった、自分の得意なテクニックを盛り込んだ即興(に近い)

         演奏を、自由にしていいコーナーだったが、しだいに作曲家たちは、自分の作品なのに勝手な演奏をされるのを嫌がるようになる。
  
         そこで、今まで空白(フェルマータの記号のみ書かれていた)だったカデンツァ部分を、きっちり楽譜に書く人が現れていくのだ。

         この頃の協奏曲で作曲家がカデンツァを書かない場合でも、作曲家が認めた初演者によるカデンツァを、後の人も真似するのが暗黙の了解

         だった。

         ただし、現在では、たとえ作曲家がカデンツァを書いてあっても、「自分の個性を大切にしたい!」と自分でカデンツァを創造したり、現代の

         作曲家に頼んで、新しく書いてもらったりしてる場合もあるので注意が必要。そういう場合は大抵解説などににそのことが書いてあるけどね。

         で、ソロ奏者の好きなようにやっていたころ、カデンツァがどこで終わるのか分からないと、指揮者もオケも次の準備が出来なくて困る。そこで、

         指揮者たちに「終わりますよ〜」と合図するために、カデンツァの最後には長いトリルを入れる習慣があった。

         その後指定のカデンツァに変わっても習慣として、入れられている場合が多い。



   
*2 トリル・・・ trill

         装飾音の一種。メインの音(楽譜に書かれている)と、その上の音(補助音という)を急速に交互に弾く。tr、tr〜〜(ちょっと違うね)と、主音の

         上に書かれている。トリルの始めが、主音からか補助音からなのか、は作曲された時代によって違うのだが、例えばピアノで言うドにtrが

         ついていた場合、ドレドレドレドレ・・・(もしくはレドレドレドレド・・・)となる。つまりは音の震えである。トリルをする長さは、主音の長さ分。




協奏曲 concerto


ラテン語の
「競う」「争う」を意味する「concerto」が語源。そこから同じつづりのイタリア語が派生する。意味は「一致させる」「協力する」である。

一番最初のコンチェルトは、声楽、又は器楽のみのアンサンブルの形態だったが、次第に声楽と器楽が共演する形になっていく。

そして、バロック時代には、コンチェルトが「競奏」と「協奏」2つの意味を併せ持ち、
「器楽コンチェルト」の様式が確立される。確立されたといっても

様式の種類は幾つもあった。その中で一番重要なのは、「合奏協奏曲」と訳される「
コンチェルト・グロッソ」だ。

コンチェルト・グロッソは、複数の独奏楽器郡(3〜5人。コンチェルティーノと呼ぶ)と、大合奏(オーケストラの、残りの人
(では無いけれど)。トゥッティ

と呼ぶ)が対等に位置し、音量の対比で聞かせるコンチェルトだ。コンチェルト・グロッソは、独奏者か、独奏楽器郡かの違い以外は、だいぶ今知られる

コンチェルトに近くなる。が、楽章の数などは作曲家が勝手にやっていたようだ。バロック期の最後のほうのコンチェルト・グロッソの作品の中に、

ソロ楽器とオーケストラの対比、急‐緩‐急の3楽章の構成を定型化して用いた作品が出てくる。更に、バッハの死の時期から、ソロ・コンチェルトの発展

が始まり、形がまとまって行く。


古典派の時代では、
ソロ・コンチェルト(独奏楽器とオーケストラによるコンチェルト)は、前の時代のソロとトゥッティの対比、全3楽章の構成を踏まえ、

第1楽章は2つの主題がオケによって提示され、その後ソロが加わって同じように主題を。それを変化させていく展開部、また主題に戻る再現部、独奏者

のテクニックを発揮させるカデンツァ部、という流れの、変形ソナタ形式が使われる。

第2楽章はリート形式や変奏曲形式が多く用いられ、第3楽章はロンド形式が多かった。


その後ロマン派の時代には、基本的には古典派時代のソロ・コンチェルトと同じだが、独奏者のテクニックをより盛り込んだ内容になる。このころに、

ピアノやヴァイオリンなどで、聴衆を驚かすようなテクニックをもった演奏家がたくさんでてきたためらしい。

また、コンチェルトと題しながらも、実際には「ソロ楽器を加えた交響曲」と呼べるような作品も作られるなど、割と自由に作られていた。

古典派、ロマン派の時代のコンチェルトが、今一番聴かれてる・演奏されてるものだろう。なにしろ華やかだから。


という、コンチェルトの基本の流れのはあるものの、いつの時代でも枠からはみでた作品を作る人はいて(枠が定まってない時代も長いからしかたないが)、

コンチェルトの様式を独奏楽器のみで演奏する「コンチェルト」があったり、室内楽編成で演奏する「コンチェルトもあったり、現代に近くなり、前衛音楽・

近代音楽・現代音楽などがでてくると、再び古典帰りではないが、楽章数もそれぞれになったりして、何をもってコンチェルトなのか分からなくなってくるので

あります。これはコンチェルトに限ったことではないけれどね。



日本語では、昔は《
競奏曲》と訳されていたが、今では《協奏曲》と書くように統一されている。が、そもそもコンチェルトはどちらにもとれるような内容になって

いるので、どっちも間違いではない気がする。



メンデルスゾーンについて


1809年2月3日〜1847年11月4日



ドイツの作曲家


祖父モーゼスは、個性的な哲学者として有名で、メンデルスゾーンの思想も、このモーゼスの影響を少なからず受けているといわれる。

父アーブラハムは、パリで銀行家として働いていた。母レーア・サロモンの祖父は、ベルリンで有名な資産家で、工場を経営するかたわら、

フリードリヒ2世の財政顧問も務めていた。アーブラハムは結婚後ハンブルグに引越し、兄弟たちと銀行を設立する。メンデルスゾーンの家は

たくさんの音楽家の中では珍しく、金銭的にも環境的にも恵まれていたと言われるが、このように、メンデルスゾーン家は、
とても裕福だった。

メンデルスゾーンは、子供の頃に、父に数学とフランス語、母にドイツ語、文学、美術、音楽(主にピアノ)を習った。

1816年から、メンデルスゾーン家は、
ユダヤからキリスト教への改宗を始める。このころから、メンデルスゾーンはベルガーにピアノ、ツェルター

に作曲を習う、など、有能な人物に教育を受け始める。

22年からは、父の趣味もあって自宅で管弦楽の演奏会を開いたりしいた(どんな家だ!)。その為、メンデルスゾーンは自然に管弦楽曲を書き始め

24年には(13歳)交響曲も書いている。

その後順調に才能を認められていき、それに伴い様々な音楽家たちと知り合う。また大作の作曲も進んだ。

メンデルスゾーンの偉業とも言える、
バッハの「マタイ受難曲」を、反対を押し切って演奏したりもしている。今では考えられないが、当時、バッハは

忘れ去られた過去の作曲家であった。しかしメンデルスゾーンはバッハを高評価していたため、チャンスとばかりに思い切って演奏したのだ。幸い

なことに、これは聴衆にも受け入れられ、後のバッハ再評価・復活につながるのだ。

20歳からは、海外へ旅行を重ね、行く先々で楽想を得て曲を書いている。


後にドイツに帰国したメンデルスゾーンだったが、改宗したとはいえユダヤ系であるということで、特にベルリンでは海外での活躍も認めてもらえ

なかった。しかし、彼を評価してくれる人を頼って、26歳から死ぬまでの12年間、ライプチヒ・ケヴァントハウス管弦楽団で、指揮・作曲などをして

活躍した。名ヴァイオリニスト、フェルディナンド・ダヴィットをコンサートマスターに招いたのもメンデルスゾーンだ。

1837年、牧師の娘セシル・シャルロット・ソフィア・ジャンルノー(超外人ぽい名前だ)と結婚する。

1838年、シューマンが発見した、シューベルトの「交響曲ハ長調」を、ケヴァントハウス管弦楽団で初演している。

1843年、ザクセン国王を説得し、資金を得て、
ライプチヒ音楽院を設立する。シューマン(ピアノ・作曲)、ハウプトマン(和声・対位法)、ダヴィット

(ヴァイオリン・合奏)、ベッカー(オルガン)などが、当初の教師だった。メンデルスゾーン自身も、時には作曲やピアノを教えた。

このころになってもまだ。ベルリンとの確執は強く残っていた。


1847年に姉ファニーが亡くなると、メンデルスゾーンは神経障害をおこし、激しい頭痛におそわれ、その年の11月4日にライプチヒの自宅で

死亡した。38歳だった。


短い生涯であったが、膨大な数の作品をのこしているということだが、大半は眠ったままだそうだ。

メンデルスゾーンが生きた時代は、ロマン主義の時代だったが、メンデルスゾーン自身は古典派の影響が強く、バッハ、ヘンデル、モーツアルト

などから多くのものを学んだといわれる。

また、環境に恵まれていたので、メンデルスゾーンの作風は優雅で幻想的。華やか。悪く言えば深いものがないとも言えるけれど、聞いていて

心地よい。邪魔にならない。素敵な気分になれる気がします。

勿論、恵まれていたのは環境だけでなく、才能もあったわけです。かなり若い(10代)うちから、高いレベルの作品を書いています。ユダヤ人の迫害

という体験以外は、たいへん幸せな人でした。