協奏曲は「コンチェルト(concerto)」の日本語訳である。メンデルスゾーンのコンチェルト、略して「メンコン」と呼ばれているこの協奏曲は、俗に言う3大コンチェルトに
名前が挙げられている。3大コンチェルトの他の2曲は、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61、ブラームスのヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77、となって
いたり、ブラームスではなくチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35になっていたり、どっちなんだか分からないけれど、どっちにしろメンデルスゾーンと
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は入るらしい。この、メンデとベートーヴェンとブラームスとチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲4つをあわせると、今度は
全員漏れなく4大ヴァイオリン協奏曲となる。よかった。
ちなみに、メンデルスゾーンのコンチェルトはメンコンだが、ベートーヴェンのコンチェルトはベーコン(ベトコンと言う人もいるが、やはり少数派のようだ)、ブラームスの
コンチェルトはブラコン(こっちは問題ないらしい)、チャイコフスキーのは当然チャイコンだ。メンデルスゾーンなんかは、もう1曲ヴァイオリン協奏曲があるし、他の人も
ヴァイオリンじゃなかったりもするが、ほかに協奏曲は書いている。しかし、メンコン、チャイコン、といったら、上に書いた1曲を指すのである。知らない人にはややこしい。
メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64は1845年に発表された。
しかし、メンデルスゾーンが最初にこれを書こうと思ったのは、6年前のことである。メンデルスゾーンは当時、ケヴァントハウス管弦楽団の常任指揮者をしていたが、そこの
コンサートマスターであり、メンデルスゾーンの友人であるフェルディナンド・ダヴィットに「来年の冬までにホ短調のヴァイオリン協奏曲を書きたい」と手紙を書いている。
だが、当時彼は結婚したばかりだったし、新しい仕事も始まったばかりだったし、他にたくさん書く曲があったりして、6年も遅れてしまったのだ。もっとも、昔の作曲家に
とっては、これくらいの遅れはよくある話だ。
実際に書き始めたとき、メンデルスゾーンは、友人であり、当時の名ヴァイオリニストであった(コンサートマスターは普通ヴァイオリン奏者がつとめる)ダヴィットに
アドバイスを求めた。協奏曲を書く際には、自分がそのソロ楽器の(今回はヴァイオリン)奏者(で尚且つ上手ければ)ならいいのだけれど、そうでない場合、誰かその
楽器の奏者にアドバイスをもらうのが普通だからだ。
メンデルスゾーンは筆が速いことで知られているが、この曲も書き始めたら早かったという。(実は6年間書き続けていた、という説もあるが)
初演は1845年。メンデルスゾーンは体調が悪かったため、ゲーデという人に指揮を任せている。ヴァイオリンソロは勿論、ダヴィットだ。
初演からこの協奏曲は評判が良く、大変な人気だった。
その人気は彼の死後も続いていたのだが、1933年、ヒトラーが政権の座につくと、ドイツ民族の純血を護るためにユダヤ人を抹殺しなければ、という考えから、ユダヤ人を
虐殺した。ユダヤ人嫌いのヒトラーは、当然のようにユダヤ系の音楽家にも手を伸ばし、また過去のユダヤ系作曲家の作品を演奏することを禁止した。メンデルスゾーンも
ユダヤ系なのだが、他にもマーラー、マイアーベーアの3人の作品を特に強く禁止した。この3人の頭文字がMなので、3Mと呼ばれる。(3Mとか3Bとか、クラシックはそういう
のが好きみたいです。○大コンチェルトとかね。)
メンデルスゾーンのこの協奏曲も当然禁止されていたのだが、他の2人の作品も含め、人気のあった曲は、作曲者の名前を伏せて演奏された。ドイツの音楽家や音楽ファン
たちの、ささやかな抗議・抵抗であった。ナチス政府も、名前は伏せているとは言え、曲を聴けば作曲家が誰かはすぐばれる。それでも余りの人気ぶりに最後には黙認して
いたという。音楽の力は、ヒトラーすら黙らせるのだ(ヒトラーはヴァーグナーの曲を政策に使ったりしていたけれど)。
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